新島襄から洗礼を受けた人々の志は、やがて種となり、芽生えました。
新島学園開学までの軌跡を辿ります。

新島襄の蒔かれし種は芽生え育ちて

新島襄 イラスト
1843年
新島襄 生誕
新島襄は、江戸神田一ツ橋にあった安中藩主板倉家の江戸上屋敷(現「学士会館」千代田区神田神保町)にて父・民治、母・とみの間に二男四女の長男として生まれました。
幼名は七五三太(しめた)。
1864年
新島襄 国禁を犯して函館から脱国、
アメリカへ
新島は、200年を超える鎖国ですっかり国際的競争力を失った日本を憂い、欧米の文化、思想、キリスト教の勉強を目的として密出国しました。当時21歳のことです。
1865年、ボストンに到着した新島は、その明晰な頭脳と向上心を買われ、裕福な船主・ハーディー夫妻の援助により、アメリカ東部の名門校・フィリップスアカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校でキリスト教やリベラルアーツを学びます。
1874年
新島襄 帰国、故郷群馬安中へ
新島は、10年間の海外での勉強と経験を通して、国の復興には「良心を持った優秀な人材の育成が大切である」と確信し、帰国してキリスト教を基本とする学校を設立し、人材を育てようと決心します。 1874年に帰国、最初に訪れたのが父母の待つ群馬安中でした。
1875年
新島襄 山本覚馬から土地約79万平方メートルを提供され、京都に同志社英学校設立
安中教会設立に関わった地元の求道者たち
安中教会設立に関わった地元の求道者たち(一部)
1878年
新島襄 30の「種」を蒔く

新島は、安中に滞在中、帰国後初のキリスト教を講義します。 それ以前の安中はキリスト教など無縁の地。教会などもありませんでした。 それでも人々は、新島の講義を求めて集い、聖書を読み、欧米の文化にも触れました。 そして1878年、新島は安中にて湯浅治郎をはじめとする30名の求道者に洗礼を授けます。 彼ら30名は「新島の蒔いた種」となり、安中教会を設立します。

1890年
新島襄 神奈川県大磯にて急性腹膜炎のため逝去(享年47歳)
新島襄記念会堂
第1回入学式が行われた安中教会・新島襄記念会堂
創立時の学園本館
創立時の学園本館
1947年
新島学園 開学
新島が没した後も、安中の地では湯浅治郎や海老名弾正、柏木義円ら安中教会の信徒が中心となり、新島の教えが定着していきました。
1920年代半ばから、安中教会関係者から学校設立を求める声が起こっていました。 1940年代半ば、度重なる戦乱と敗戦という国難に混乱を極める日本。 「戦後の復興のためには若き青少年達にキリスト教精神に基づく人格教育を施すしか方法はない」と熱い思いで立ち上がったのが、湯浅治郎の孫・湯浅正次でした。

1945年、正次は新島襄の精神を建学の基盤とする中学校を新設することを表明。 そして、ついに1947年5月、安中市に新島学園を設立しました。 第1回の入学生は82名。荘厳な安中教会・新島襄記念会堂で入学式が行われました。

新島襄がボストンから帰国し、安中で初めて布教の「種を蒔いた」1874年から73年後のことでした。

新島襄の蒔かれし種から70余年の時を経て、全人教育の学校として開花した新島学園。
新島襄をはじめ先達の残した教えは、時代とともに変化する学園においても変わらないものとして今も受け継がれています。